昭和20(1945)年8月6日、父母の故郷廣島は原子爆弾の投下で喪失した。「新型爆弾で70年間草木も生えぬ」と言われたその地に、中国・天津から引き揚げたのは翌年3月で、私は9歳だった。爆心地近くに暮らしていた祖母は爆死していた。
被災を免れた市内の宇品(うじな)にあった旧兵舎の引揚者住宅で、私は小中高校の9年間の生活を送ったが、残留放射能のことなど子供心にも無頓着であった。親類縁者、同級生たちに被爆者は多くいたが、誰もそのことを口にしない、いやできない時代だった。
負の遺産としての原爆ドームは、その一瞬の永遠をとどめた象徴である。人類の最大の不幸を風化させることなく、この核の世に残像としてあると思う。これまでいろいろな角度、意味合いで撮ってきたが、このたびの東日本大震災による福島原発の事故が大きく胸にのしかかり、2011年の廣島の夏を撮る衝動にかられ、出向いたものである。